「青でありたい」
僕が「青を仕事にする」と決めたと同時に決まった「あり方」です。
「好き」に生きることの良さが広まってきたと感じていますが、それと同時に「好き勝手」に生きる人も増えてきました。
振り返って見れば「好き」と「好き勝手」に生きる違いを学んだのは華僑のあり方だったなと感じています。
街を創る華僑
世界中に5000万人以上居ると言われている華僑の子孫。(華人と呼ばれますが、わかりやすさのために華僑とします)
マレーシアやシンガポールで事業をしていたときに特に感じましたが、その存在感は大きく「どの国に行っても彼らがいる」という感じでした。
ただ、どこでお会いした人生を謳歌しています。
「なぜ、それができるのか?」それは彼らがその土地に街を創るからです。
自分たちがやりたい事のために必要とされる街を
僕がマレーシアに移住して感じたのは、その場所に馴染む大変さです。
ましてや街を創るというのは並大抵の事ではありません。
ですが、華僑の方々はそれをやられてきました。
その地に住みたいから、その地に必要とされる街を創るのです。
自分たちはその街に住み、その国の人はその街から恩恵をうけます。
この状態に「勝ち」は無く「価値」があります。
あなたが好きに生きることに「勝ち」ではなく「価値」はあるか
「好き勝手」とは「好きに生きることで勝ちを得ること」
「好きに生きる」とは「好きに生きることで価値を得ること」
その「好き勝手」と「好きに生きる」の違いは「邪念に生きるか」「純粋に生きるか」の違いです。
なので、子どもの純粋な「好き」には無条件で「価値」があり、大人が何か意図を持った「好き」は基本的に「勝手」があります。
僕が青に生きると決めたとき
「僕は青に生きることを望まれる存在でありたい」
9年前、僕はそう思いました。
「青に生きたい」でも「周りに青に生きることを望まれなければ嫌」だったのです。
実際、今の僕はそうなっています。
僕と会えば「視界がクリアになり、必ず良くなる」ので「会うことを喜ばれる」ようになり、そういう僕を知ってくれている周りの方々が「青」を応援してくれるようになりました。
それは、青をに生きるために、青として必要とされる形を創ってきたからだと考えています。
これは、華僑の方々が住むために、必要とされる街を創るのと似ています。
それが身についたのは「青に生きるため」に「純粋(青)にやってきた」から。
といってもやったのは「青が好きで、青に生きる」と人に伝えて、起きたことに対して「純粋(青)」に向きあい続けただけです。
もし、今引っかかっている事があるのであれば「自分は何が好きなのか」を見つけ、そして「それを望まれる存在になりたい」言ってみてください。
「自分は何が好きなのか?」がキーワードですがシンプルに
その「自分は何が好きなのか?」に対しても身構える必要はなくて、最初は「今日明日何がしたい」からで大丈夫です。
身近な「やりたい事」が「自分の好き」に繋がっていくのは、青で経験済みです。
そして青に生きれば上手くいく事も9年掛けて実績が出てきていますし、これから先はもっとこの「あり方」が必要とされると思います。
この文章を読んでいただいたのもご縁ですので、よかったら「あり方」に向きあっていただけたら嬉しく思います。
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