すべての人は「生まれながらに天才」です
「天才」というと「努力では届かないような能力を有している人」や「考えられないような実績を残している人」を指して言われることがありますが、本来の意味は「天から与えられた才能」という意味です。
今、人生を幸せに生きられているかどうかは、その才を活かしているか否かで決まっていて、その才のヒントは「好き」にあります。
そういう意味では僕の「天才」は「青」であり、そういう意味では「青が天才の人」であると言えると思います。
では、「青の才」を持っていたとしても、活躍できるかどうかは僕が青に生きているかどうかで決まっていて、僕が青に生きるには「共に生きる人」が必要でもあります。
資本主義の時代であった昭和や平成は「物理的な力を持っている人」が強者であり、そうある方が上手くいっていた時代ではありました。
ですが、今は令和の時代。
天から与えられた才で共に生きる「天才共生(てんさいきょういく)」の時代になり、その「天才を共に育む」必要が出てきました。
前置きが長くなりましたが、その前提やあり方について本日は書いてみたいと思います。
大人も子どもも同じ「人」
成人という区切りは年齢で法的に決まっていますが、大人と子どもの区分については(電車や映画館など場所によって区分が違うように)決まりがありません。
区分を設けているのは、それぞれの意識下の話で「大人だから」「子どもだから」という理由付けに使ったとしても、実際には「大人と子どもの区別は無い」というのが正確な表現になると思います。
そういう意味で、大人も子どもも同じ人であり、生まれた時期の違いがあるだけという話になっていきます。
才能は若い人の方が必然的に高くなる
才能は「その時代に合った形」で生まれるので、新しく生まれてきた命であるほど「今の時代に合って」います。
これは最近出てきたスマートフォンの方が高機能であるのと同じです。
若ければ若いほど才能が豊かで、年を取るほど経験や知識が豊富。
そのため、どちらがよいと言うわけでは無く、どちらも必要だから存在していて「同じ人として平等」に存在している。
なので、大人と子どもと分けることになったとしても「平等に共に進む」という意識が必要になりました。
「知っている」と「分かっている」は別物で、子どもの方が分かっている
僕も父親であるので、子どもよりも経験があるという自負はあるのですが、そこからもたらされているのは「経験」や「知識」であるという認識。
これは「知っている」という状態で「僕自身にとっては必要」なものではありますが、子どもにとっては必要無いものも多いです。
それは何故かというと子どもは「知らずとも分かっているから」で、この傾向は今の子ども達全員に言えることは分かっています。
大人は色々知っているので、それを「教えよう」とする
しかし、子どもはそれが「分かっているので必要無い」と感じている
それが、今の「教育」と呼ばれる仕組みが合わなくなってきている理由であり、問題が発生している原因でもあります。
何かを教えるのではなく「伝える」方が上手くいく
教えるというのは「上から下へ流す」イメージです。
ですが、子ども達の方が分かっていて、大人の方が知っている現状では「どちらが上」という事がありません。
そのため、どちらが上を取った時点で不自然であり、上手くいかなくなるのは様々な現場で見てきました。
それは「役目と循環」の時代になって、並列に物事が進むようになったからです。
この時代は「教える」よりも「伝える」方が合っていて、伝えている場所はやはり進んでいきます。
今の時代については以下ページでも考察をしているので、よかったら読んでいただけたらと思います。
子どもと大人が「共に才能を育てる」時代に
僕は近い将来「子どもによるコンサルティング事業」が必要になると感じています。
これは「大人がやろうとしたことの相談を子ども達が受けて意見を出す」という事業です。
子ども達の方が「今の時代に何が必要か」が分かっているので、間違いなく正解が出てくると感じているからです。
そして、その子ども達の才能に触れることで「大人の才能」が発揮されます。
そうして「天才が共に育つ」という場が拡がっていき、「天才が共に生きる」へと繋がっていくと、僕は考えています。
その一環として「未来学園HOPE」で行っている「子ども達が行き先ややることを全て計画する宮古島イベント」や天才が集まる場所を創る計画を進めています。
どうやって人々が「天才で共に生きていけるのか」を僕は「青に生きる」を通して伝えて行ければなと考えています。
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